新短歌歌集「河童天国」より
河童の町
 わが故里は筑後の国、福岡県浮羽郡田主丸町、かつて河童の群棲地であった。原田種夫氏選歌
幼児のようにあどけない奴 わが郷愁の河原には今も河童が棲んでいる |
河童と角力をとったという人も逝き 故里の町の道巾の狭さ |
河童の声かと思う鳥の啼き声 渡場の古杭に少年の日が繁がれていた |
いたずらな河童は娘のお尻を撫でたがる カッパ祭りの夜の賑わい |
少年は二階へ上げられた 河童の縄張り争いが洪水をおこした と教えたのは姉 |
引き込んでも引きこんでも浮き上がる瓢箪 河童封じの呪文が詰まっているに違いない |
塩鰯は山童の大好物 木樵の弁当を盗んだのはあいつか狐か |
いたずらを許された河童の大粒の涙 人間がこんなに暖かいとは知らなかった |
妖術を使うせうだろうか 河童は両棲動物図鑑からはずされている |
甲羅の古傷は河童のいくさを知っているが 若者達ときたら 踊り呆けている |
魚住まぬ川面に顔出した河童だ ぶわぶわ洗剤の泡ばかりだ |
老河童デートしていたその頃は螢ふわふわ飛んでいた 螢橋など今は名ばかり |
甲羅をゆすらせて河童が笑った 叙勲とて人間が品定めされている |
甲羅のおかげです 火傷が軽くて助かったのは 被爆した太田川の青河童言い |
暗愚とても騙しはしない 人間よりも義理固いと葦平さんも言うた |
狐や狸のもたないものを お前はしかと持っている 「河童の恩返し」 |
ブナガヤは手に花火をちらつかせ川面をペチャペチャ渡って来る 頭に皿なし |
緑の燕尾服を着た水辺の靴屋はチェコの河童だ オアイプを銜えている |
河童渡来記
河童の先祖は、支那大陸の最奥、中央アジアと境を接する新疆省のタクラマカン砂漠を流れるヤルカンド河の源流たるパミール山地の一渓水に棲んでいた。ところが約二千年前、支那では前漢の初期の頃、猛烈な寒気に襲われたため、極寒と食糧不足に苛まれた河童達はやむなく発祥の地を捨てて移動せざるを得ぬ羽目に陥った。 西への一隊は頭目獏斎坊に率いられ、パミールを超えてペルシャ(イラン)に出て、小アジア(トルコ)を過ぎ地中海を渡って、ハンガリーのブタペストに到着し、ダニューブ河を棲家とした。 東への一隊の頭目は九千坊で、はじめは、中国の東部をめざした。ヤルカンド河を下り、楼蘭を通り、「動く湖」といわれるロプノル湖を渡り、敦煌・玉門関を経て一応青海に落ち着いた(この一行の中には、後年、唐の時代に、玄奘三蔵法師を案内して、印度へ経文を取りにいった沙悟淨もいたのである)。 さらに一行は、黄河を下って、西安の東、潼関の淵に到達しここを住所とした。しかしこの地も依然として食料が十分ではなかった。 そこで九千坊は、瑞穂の国、日本へ渡ることを決意し、部下をひきつれてさらに黄河を下り黄海に出た。大海では、海若という大怪物の襲撃に会ったが難を逃れて泳ぎついたところが、九州の八代の浜であった(八代市の徳の洲には、河童渡来の碑が建っている)。 十六代、仁徳天皇の御世、今からざっと千六百年の昔である。九千坊一族は、球磨川を安住の地と定めた。この地は魚族、野菜も豊富で食べ物に困るようなことはなかった。かくて歳月は千余年をけみした。 今から三百七十余年前、肥後の国の城主は加藤清正であった。清正の小姓に眉目秀麗な若衆がいた。清正寵愛のこの小姓に懸想した九千坊は、釣糸を垂れていた小姓を水中に引きずりこんで尻子玉を抜き、殺してしまった。清正公は大いに怒り、九千坊一族に報復すべく全配下と九州全土の猿族を動員することになった。九千坊は、己が罪と、河童族の劣勢を勘考して、球磨郡渡村の古い禅寺の高僧、閑雪和尚に仲裁をたのみ、清正公に詫びを入れた。閑雪和尚の命乞いによって、九千坊一族は、河童の危機を免れたものの、球磨川からは追放された。九千坊は久里米の有馬藩主に今後の自粛を固く契って、筑後川に棲む許しを得、一族は打ち揃って移住したのである。そして久里米水天宮(鎌倉時代の建永元年<1206年>に建てられたお宮で、安徳天皇と平清盛と時子二位局とを祭る、筑後川治水の神である)のお護り役となった。 徳川幕府の後期、有馬家は、下屋敷を江戸高輪に設け、その邸内に、水神様の分霊を祀られたので、水神様に仕えていた九千坊一族も、高輪の下屋敷に近い品川の海に移動した。次いで、文化年間、有馬家は、高輪の下屋敷が手狭になった為、今の中央区蛎殻町へ居を移し、水神様もまた同所に遷された。これが現在の水天宮である。(水天宮では水難除けや安産を祈願する。水は田畑を潤し豊穣をもたらす根源であり、その霊威が、作物ばかりでなく、人の上に及べば、多産を促すこととなる。水天宮が水神であり、且つお産の神様でもある所以である)。九千坊一族も、品川の海から日本海近くの隅田川(両国橋から永代橋の間)を住居とした。 ところが、九千坊の河童のこととて、中には好色な河童や酒癖の悪い者もいたし、また人畜や家庭にまでいたずらをする輩もいて、?、殿様の勘気にふれるようなことをしでかし、九千坊も頭を痛めた。その間、頭目九千坊から破門、追放された河童達は、利根川を始めとし、次第に全国の川々に散らばっていった。 頭目九千坊は、江戸というところは、部下の統率上、適当な場所に非ずと判断したので、有馬藩主の許しを乞うて、古巣筑後川に帰ってきたのである。筑後川は、餌も豊富である上に、川畔の人々は人情こまやかで、河童に対しても親切であり、まことに天然の楽土であった。かくて九十九峯ともいわれる屏風山、水縄山脈を南に眺めるところ、水清き筑後川に、九千坊一族は安住してきた。注)この話は、佐藤垢石著、「河童閑遊」より集約。